6月1日皇居東御苑

今回は大手門→二の丸庭園→梅林坂→天守閣跡→平川門というコースでした。
必ず三の丸尚蔵館を見てから庭園散策をします。
都会の真ん中とは思えない静けさと緑の中を散策できます。


三の丸尚蔵館の近くにある皇居正門石橋の旧飾電燈

まだきれいにさつきが残っていていました。さすがに皇居手入れは半端じゃありません




ヒバ


ヤマモモ

【二の丸庭園】
江戸城本丸・二の丸跡を整備して1968年より一般公開しました。都心の広大な緑のオアシス
広さ:東京ドームの4.5倍二の丸庭園は、小堀遠州作の回遊式庭園を復元した日本庭園です。
ちらほら花菖蒲が咲きだしていました。




高台からの二の丸庭園


【梅林坂】
梅の花が咲くころは見事だそうですがまだ訪れたことがありません


【天守台跡地】

旧江戸城の天守閣は江戸時代初期の50年間しか存在していません。

1)家康の慶長年間の天守/1607年。場所は本丸の中心部でした。
2)秀忠の元和年間の天守/1623年。
3)家光の寛永年間の天守/1638年。
家光の天守閣は黒壁に緑の銅葺き屋根で5層6階建て、天守台は4方約40b、高さは約58bあったそうです。威厳を誇った寛永天守閣も明暦の大火(振袖火事)ですべて消失してしまいます。

幕府は直ちに天守閣・本丸の再建工事に着手し、加賀前田藩に命じて天守閣の再建にあたりましたが、将軍家綱の補佐役で叔父の保科正之(家光の異母兄弟)の進言により、天守閣の再建工事は中止となってしまいました。

現存する天守台は中止前に加賀前田藩が築いたものです。

江戸城の石垣はほとんどが伊豆半島・伊東付近の石を使用していますが、この天守台の石は前田藩がわざわざ瀬戸内海から運んだ石を使用しています。
谷比べて白っぽいのはそういう理由があったからです。
「千代田区」カテゴリの最新記事より


【桃華楽堂(とうかがくどう】

桃華楽堂は、香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂で、昭和41年(1966)に完成しました。
八角形の建物で、屋根は、テッセンの花弁を形どっています。

八つある壁画は、各画とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。

香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名されました。

設計は、長崎二十六聖人記念館や穂高碌山美術館を手がけた、故今井兼次氏が担当しました。


【平川門】

平川門は、江戸城三丸の正門でした。

死者・罪人を運ぶので不浄門、奥女中の通用門であったのでお局御門の名もありました。
春日局は江戸城大奥の権力者で、息子の屋敷を訪ね、つい長話で夜になり、暮れ六つ(日の入)の閉門に遅れ春日局といえども、規則は規則で寒い夜を門前で明かさざるをえなかったそうです。


江戸城の裏門にあたるので不浄門とか言われ、罪人や死人はこの門から出され、浅野内匠頭や老女絵島も、この門から出されたそうです。



ちなみに平川=神田川だそうです


アルバムメニューヘ